立花は家を出て、少しの場所にある大通りを北上していた
立花の暮らす貸家はここシー・クアンの位置関係でいえば、ちょうど東端のあたりに位置する〜〜という名の区域である
そして今、立花が目指す場所はシー・クアン北部に位置する商業区間−ファルス・ネージ−、ここ(住居区間−ゼルエ−)からバイクで行くとなると急いでも40分はかかるだろう
「さすがに20分ぐらいで行かないとやばいな・・。奥の手で行くとしよう」
言うが早いか、目に入った小さな路地に飛び込むとその奥の壁に向かって飛び、エンジンをフルスロットルまで絞ると、壁面に平行の形で吸い付くように走り出した
これを可能にしているのは、一重に立花の技量もあるが、何より乗っているバイク−グレイブ−には重力緩和装置が取り付けられており、その効果でこのような離れ業を可能にしているのだ。
(この町の地図は頭入っているし、朝みたいな特殊なことが起きなければ間に合うか)
「グレイブ、重力フィールドの制御率を上げてくれ。」
「リョーカイ」
立花の声に答える主がどこにいるのだろう?と見てみれば、どうやらグレイブから声が出ている
そう、このグレイブにはA.Iユニットが搭載されており、本体に組み込まれたシステムをそのA.Iが統括している
先の重力緩和装置もそうだが、このグレイブの設計者は立花自身であり、定期的なチューニングも欠かさない自慢の愛車である
それはさておき、重力緩和装置が生じさせる重力フィールドの稼働率を上げたことで、より安定性を増したグレイブを壁面に垂直になるようにハンドルをきり、先ほどよりもより高度な離れ業を繰り出し、建物と建物の間の空間を越える際にジャンプを何度かしたが、投げ出されて落ちることもなく軽快に走り抜けていく
「この調子でいけば大丈夫だな・・・なっ!?」
少し気を許した瞬間に目の前に派手な布キレが現れた。
いきなりのことでかわす余裕もなくそのまま顔にかかる形になってしまった
「きゃあっ!!」
突然目の前を通るものがあったので、物を乾そうとしてたであろう女は驚いて声を上げた。
(若い女の悲鳴がしたが、まさかこの鬱陶しい布は・・・)
走るのに邪魔なので先ほどの布キレを掴むと、悪い予感は的中していた
その手に握られていたのはライトブルーの下着であった。
「これじゃあまるで下着ドロみたいだな・・。さすがに帰りに詫びを入れさせてもらおう」
苦々しい表情のまま、手に持っていた下着をグレイブの中に入れ、先を急ぐことにした
様々な生活色を見せるゼルエの壁面をしばらく走行すると、遠目に開けた場所が見え始めた
「そろそろゼルエの範囲を抜ける頃合だな」
視線に住居区間と工業区間の境界を見止めると、壁面上部から徐々に下に向かって降りていき、降りるのにちょうどいい高さになるあたりでグレイブを跳躍させ、地表に戻った
腕の時計を見ると、時計の針は残り8分を示している
走り過ぎたのは、全体の走行距離のおよそ6割というとこだろう
(予定の時間に間に合うか微妙なところだな)
降りた地表は工業区間と生活区間の混じり合う境界にある小規模住居区間−フォルゼ・ネート−である。
そう呼ぶのはこの場所に住まう者だけで、一般には工業区間「レイスト」で働くもののほとんどが住んでいることから、「レイスト・スラム」などと呼ばれている
この場所から自分の知りうる裏道を駆使し走り行こうにも、住居区間のように建物の移り変わりのすくない場所ならいざ知らず、このような区間同士の境界面は建物が密集しており、また建物が取り壊されたことで出来た空間や新しく何かの工事が為された場所などがひと目ではわかりにくい
レイスト・スラムのこのような特徴により、走り抜けるには昔から変化の少ない場所を通らなければならないわけである
だが、とどのつまるところこの場所を突き抜けるのは方向感覚が物を言う
道の切れ目に出くわして、引き返そうにも建物の立ち方が無秩序で、方向感覚のしっかりとしたものでなければ、自分自身でレイスト・スラムを抜け出ることはまず不可能だろう
「ここをグレイブで走るのは危険だが、時間を考えるとそれも言ってられないな・・」
溜息を吐き出すと同時に速度を落とし、先を進むと目の前には肩身を寄せ合うように陳列した店々とその店々の隙間や店先を利用して店を開く露店の数々が見えた。
こんな場所の露店で売られているものは非合法なものばかりだと一般的には考えられるが、意外とそういうこともなく、数少なくあるそのような店も基本的には普通の品物を扱っているので、治安上ではそう悪くもないとったところだろう
非合法なものも裏通りなどの闇市では扱われたりもするが、表だって出てくることはない
「人通りは鬱陶しいな・・さっさと抜けるか」
立花は立ち並ぶ店々を一つずつ見ていき、ある一点を見たとき
「あれだな。全く、度々店を移転する癖を直してほしいもんだな」
少し苛立った雰囲気が込められた言葉を吐くと、エンジンを止めて、グレイブを押し運びながら店に入っていく
“カラ、カラン・・・。”
扉につけられた鈴が耳どおりのよい音を奏でると、店の奥でスポーツ観戦をしている店主がこちらを見た
「よぅ、久しぶり〜」
少年のような悪戯っぽい顔とともにソイツは平和そうな声をかけてきた
「・・・・・・・」
「無視すんなやー!!せっかくワイのぷりちぃ〜なハスキーボイスを聞かせたるっちゅーのに!!」
「ハスキーかどうかはどうでもいいが、その地方言葉好きをどうにかしろ」
「なんだよつれねーな。あんまそういうこというとウチの<回廊>使わせないぜ?どうせその様子じゃ<回廊>目当てでウチに来たんだろ?」
「ちっ!・・どうせいくらか請求しやがるんだろ?今日は急ぎだ、四の五の言わずに使わせろ」
「はぁ・・わーったよ」
男は腰を浮かせ、テレビのリモコンと思わしきものを店の入り口に向け操作した
すると、店のカーテンが下り、店先に出している電光板に「準備中」の文字が浮かんだ
次に男は壁のボタンを押すと、ボタンのあった部分がスライドし、銀色の操作盤のようなものが出てきた
操作盤のキーを操作しながら男は立花に話しかける
「それにしても、お前が遅刻しそうになるなんて珍しいな。いつも時間ちょうどに仕事を片付けてるじゃねぇか」
「今朝は少しばかり予定を狂わすような事態が起こったんでな。そのせいだ」
何のことはない顔で答える立花の声がする最中、店主の男と立花の間の空間では大きな変化が起こる
床の中央部が盛り上がり、その中央部に対して45°に4方向のアーチ状の円柱が宙に現れる
その全てが蒼白い光を帯び、それに呼音するように中央部の上の宙に浮かんだ薄白い円が現れた
「ふーん。その事態とやらはお前の興味をそこそこ引いた、と。」
男はニヤつく顔を隠すこともせず、挑発するような顔で立花を正視した
「レイン、お前にそうやって見られると、すごく不愉快だ。準備ができたようだし、
ファルス・ネージまでの回廊をさっさと設定してくれ」
わずかに眉間を細めながら、立花はレインと呼んだ店主を急かした
「やっと名前呼んでくれたか、堵海。ちょっと楽しそうなお前に免じて今回の分はチャラにしてやんよ。」
そういうとレインは壁にある操作盤に再び触れ、目の前にテーブルの上に緑色の光源で形取られたキーボードを出現させた。
そして、レインはその光で出来たキーボードの上を手馴れた手つきで指を高速で動かせていく。その動きに合わせ、キーボードの上空の空間に同じく緑色の光源で形取られた画面が続々と表示されては消えていく。
指は高速に動いているものの、その動きは〈叩く〉というよりも〈弾く〉といった表現がしっくりきそうなくらい繊細な動きで、まるでワルツを踊るかのように一つの流れを踏んでいる。
「っほい、設定完了っと。」
レインが最後のキーを弾くとともに、円柱が高速で何度か回転し、その中央に浮かんでいた円が大きくなった。
円の中には、光の線だけで構成された道の連なりが現れた。
「セインレスの裏道あたりに出るように設定したぞ。たまには客として何か買いにこいよ。」
「あぁ、仕事が片付いたらちゃんと客として来させてもらおう」
そう告げると立花は円に向かってグレイブを走らせた。